自分の価値とは?と考える時こそ憂鬱になる時はない。
最近こう思う。疲れた。
まぁ、3年だし、こう考えるのは普通だと思う。
で、何故憂鬱になるのかと言うと、自分の価値とは何かを探るため、自分がやってきたことを冷静に振り返ってみると
自分が意識高い系だ
と言うことがヒシヒシと痛感するからだ。
意識が高いのではない。意識高い系なのだ。
では、何故自分が意識高い系なのかと思うかというと、考えたり批判したりはしてきたが、肝心の実行があまりにも少なすぎる。
もちろん、自分が全く何もしていないかと言ったらそれは違う。自分も積極的に参加したし、頑張った部分はある。全否定する程自己肯定感が低い訳じゃない。
だが、参加し頑張ったことで結果的に何が残ったのかと言うと、返答に困る。資格を取った訳じゃないし、大きな繋がりを作った訳でも評価された訳でもない。いつも、これで良かったのかとか、あるいは恥ずかしい事だが、人のせいにして批難している自分がいる。
私は多くはないが、それなりに社会人に会い、社会人と話してきた。
その事で感じたのが、面白い人や奇抜な人を欲しがっているのではなく、働きやすい人を欲しがっていると感じた。
(勿論、大前提として結果を出せる人を探していると思う)
働きやすいとは何かと言うと、当たり前だが、コミュニケーションをとる事が出来る人だと思う。
なんとなく社会人の人と呑んでいて、私を見て苦虫を噛む様な、とっつきにくそうな顔をする。
勿論、確認した訳ではないので、ただの被害妄想の可能性は大なのだが、なんとなく自分でも思うことがある。
それは、なんか自分、教科書的なことを言ってるなって。
それは何かと言うと、教科書のように模範的で抽象的な事だ。
社会人の人に話しかけるのは、質問だったり、聞くだけで自分のことはあまり話さない。自分が何をやり、何を思ったのかを言わないのである。
勿論、自分の業績を誇らしげに自慢するという訳ではない。素直に聞かれたら語るだけだ。
でも私は、意図的に自分のことを語ることを拒んでいる。
何故かと言うと、自分は自分のやってきた事を恥じているからだ。だから自分のやった事に対しての評価が低い。汚点だと感じている。だから隠そうとしているのだ。
それを聡い人は察してこう、とっつきにくいと思われているのだと思う。
なんで自分のやってきた事を汚点だと感じているのかと言うと、前言っていたリーダーをした経験で失敗し、良い人間関係の構築に対するコンプレックスがあるのではないかと思う。
今思うと、プロジェクトが失敗した理由は自分だけとは思えないし、システムの作り方にも問題があったとも思っている。
ただ、コンプレックスを素直に受け止め、自分なりに改善しようとしたのならいいのだが、コンプレックス
をゼミにぶつけ、ゼミやゼミ生を悪とし、自分のアイデンティティを確立しようとしたのである。
だから、ゼミの先生の言っている事に反感を持ったり、プロジェクトの活動を何処か達観的に見て他人事の様に振舞ってしまったのである。
このゼミが良いゼミかそうでないかは別として私自身、ゼミに良い思いは持っていない。だから、ゼミでやったプロジェクトは私にとって話したい内容じゃない。どうしても否定的になってしまう。
別に無理していい感情を持つ必要はないが、組織に所属している以上、自分の他人事の様に考える事は良くないと思う。
私の言いたい働きやすい人とは、組織の一人として働き、一緒に働きたいと思える人だと思う。
私は組織の一員にも関わらず、他人事として捉えているため、一緒にやろうという肯定的な感情が相手に伝っていないのだ。そして相手は私に悪い印象を持つ。負のスパイラルだ。
つまり、私は協調性のない奴なのだ。正直、自分を客観的にみて一緒に働きたいとは思えない。
勿論、コミュニケーションをとる事だけが良いとは思わない。コミュニケーションは物事が上手くいく要因の一部である。だから正直ゼミ生達の自分達が楽しいならそれでいいと言う様な雰囲気は苦手だ。
だが、自分はそのコミュニケーションにおける重要性の割合が少なすぎたような気がする。
どうせ一緒に仕事をするなら、仲良く楽しくやった方がいい。
その為に、飲み会や雑談がある程度必要だと思った。
私の参加しているプロジェクトの一つに10人のチームのプロジェクトがある。ぶっちゃけ上手くいってない。
その要因は、何をするべきかをリストアップし、どの様に段階を踏むか、手筈を整えていないのが大きいと思うが、チームとしてまとまりがないのも要因だと思う。
だから、ミーティング終わっての雑談は凄く無駄で大嫌いだけど、時々は少しだけ参加してもいいかなって思う。
あと、プロジェクト活動以外にも雑談してみようと思う。
要は試しだ。やってみよう。